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嵐 敦子さん インタビュー編 第2話
暑さ寒さも厳しいけれど
海・山・里の幸に恵まれた北陸で
「わたしらしく」暮らしている
魅力的な女性に会いに行きました。
リュックひとつで沖縄に旅立った嵐さんを待ち構えたものとは!?
金沢市民芸術村で駆け回る元気な写真とともにお楽しみください。
第1話「あっちゃん、うさぎみたい」
第3話「戦場カメラマンとフェアトレード」

第2話「沖縄テント生活」
———沖縄に行ったのは何歳のときですか?
初めて行ったのは、23、4歳のとき、3ヶ月間だけ住み込みで。
———きっかけは?
仕事を辞めたから。
ネットでみつけて、住み込みだし行ってみよっかなーって軽い気持ちで。
住み込みスタッフのみんなで雑魚寝みたいにするのかなーってリュックひとつで行ったら、シュラフ(寝袋)を渡されて、「今日からそこのテントで寝泊まりしてね」って!
海辺にテントがはってあって、そこで3ヶ月間寝泊まりするテント生活。
おもしろかったー! たのしかったー!
———どんな仕事だったんですか?
カフェバーと宿泊施設を経営してるところで、食事やカクテルを作って出したり、掃除、ベッドメイキング…なんでもしてた。ボランティアで入ったから。
———え?ボランティア?
そう。自分たちで作らないといけないけど、食事はタダで、寝泊まりもタダ。その代わりタダ働き。WWOOF(ウーフ)って知ってる?
衣食住は確保してもらう代わりに働きを提供する、お互いWinWinの関係を結ぶっていう仕組み。
沖縄で働いていたカフェバーはWWOOFではないけど、そういう仕組みだった。
———どんな3ヶ月でした?
感情の出過ぎた3ヶ月やった…!
今考えると、沖縄が転機やったかも。
ひとりで行ったから誰も知らない状況で。
そんなところに行くと、「私はこういう人間ですよ、こんなことがしたいんです」って言わないとほったらかしにされる。
みんな自由に生きてる子たちばっかりやから、ちゃんと自分の意見を持ってて、「私はこれがやりたいです!」ってはっきり言える。
私はそういう経験初めてやったから、気づいたらぽつんとひとりになってて。
これからあと3ヶ月もあるって考えたら、ほんとどうしよー…って。
ちょっとずつ自分から話しかけたり、自分の思いを話すようにしていったら、それがトレーニングやったみたい。
どんどんしゃべれるようになって、毎晩仕事のあとにみんなで飲みながらアツい気持ちを語り合ったり。
そんな濃厚な毎日は初めてやったから、「今週はあの子とあの子が帰ってしまう。私も帰りたくない、みんなと離れたくない!」って、帰る2〜3週間前は毎日泣いてたな。
———延長はできないの?
できるんやけど、そこで知り合った子たちで1年後集まってカフェをやろう!ということになって、いったん石川に戻ってきたんやけど、ちょっと迷いも出てきて。
でも、一緒にやろうと言ってくれた友だちがすごく熱心だったから、これはもう行くしかないって、向こうに永住するつもりで、みんなとお別れして…。
到着したその日に…
沖縄に到着したら、すっごいかわいいカフェがすでにできてた!
もうオープンしてたから、1日ずっと様子を見てたけど、直感で「私やっていけない」って思った。
お給料出てこないだろうなって。
友人と共倒れしてしまうと思って、到着したその日に一緒に働けないって伝えたの…。
それから、ボランティアで来てたときのカフェバーの店長夫婦の自宅に運良く住まわせてもらいながら職探し。
「ここでしか働きたくない!」ってところを見つけて、それがマクロビオティックのカフェで、今の仕事(niginigi)につながっていくんだけど。
なぜかパン屋さんに。
———そこでマクロビオティックのことを学んだんですね。
そう。そこはマクロビオティックのカフェと沖縄そばの店を併設してて。
———マクロビオティックと沖縄そば!? なぜその組み合わせ??
沖縄そばって、木の灰の上澄み液を生地に練り込むとミネラル分で黄色い麺ができるんやけど、そんな昔ながらの手間がかかる製法はほとんど廃れてて。
それを復活させようって、木を燃やして木灰を作るところからこだわる沖縄そばのお店やったの。
———なるほど!
でも、木を燃やした後の上澄み液だけを使うから、ただ燃やしてるだけじゃもったいないってあるとき気づいて。
もう何年もやってるのに、今まで気づかんかったんかい!っていう。笑
だったら、パンを焼きながら木を燃やそうってことになって、みんなで石釜を作ったんやけど、今度はパンを焼く人がいないって気づいて。笑
そしたら、パンが好きなあっちゃんがやればいいって。笑
1ヶ月間、朝4時から那覇のパン屋さんで教えてもらって、パン屋さんを始めることに。
オーナーの別荘があるリゾート地に石釜を作ったから、毎朝の通勤に1時間。
でも、海沿いの道を走るのは気持ちよかった〜。
そこで私がパンを焼いて、イタリアンのシェフが料理を作るというレストランを始めたんやけど、なんせシーズンオフで誰も来ない。笑
避暑地やったから、ほとんど誰も住んでなくて、ほどなくしてシェフは辞めてしまい、私だけ残って、毎日せっせと薪をくべてパンを焼く生活。
パン焼くんやけど、誰も来ないから、むだに広い庭の草むしりしたり、自生してる島バナナ食べたり、ときどき近所のおばちゃんが野菜売りに来るから、パンと物々交換したり。
そんな、私なにしとるんやろ?って期間を2年くらい過ごして、特に帰る予定もなかったんやけど、地元のおじいちゃんとおばあちゃんの具合が悪くなってしまって。
私はいつでもどこでも住めるから、今はふたりと一緒にいようと思って、石川に戻ってきた。
28歳くらいのときかな。
———一度出て戻ってくると、地元のいいところいっぱい見えてきますよね!
ね! あたらしく出会う人とのつながりとかできてくると、あら、たのしい!ってね。
出て行く気がなくなるというか。
———そうそう。どこでも十分楽しめる自分になってるんですよね、いつの間にか。
さて次回は、niginigi創業秘話の前に…
実はカメラマンを目指していた嵐さんのお話しと
嵐さんを取り巻く行動派女性3人のお話し、
「戦場カメラマンとフェアトレード」をお届けします。
お楽しみに。
取材・文:吉田知奈(あわら市出身)写真:前田 龍央(福井市出身)
第1話「あっちゃん、うさぎみたい」
第3話「戦場カメラマンとフェアトレード」